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《げっせい》ジャイアンツ(読売巨人軍)とその選手スタッフに関するニュースや試合結果などをまとめ、あれこれ思うことを書いています。

背番号0の変遷

ジャイアンツの背番号0の歴史と、その番号の持つ意味・イメージは?

背番号0

 

歴代選手と特徴

’89〜’99かわい まさひろ
川相 昌弘(内野手)
’01〜’06かわなか もとつぐ
川中 基嗣(内・外野手)
’07〜’09きむら たくや
木村 拓也(内・外野手)
’10〜’11くどう たかひと
工藤 隆人(外野手)
’12〜’16ふじむら だいすけ
藤村 大介(内野手)
’17〜よしかわ なおき
吉川 尚輝(内野手)

(2018年12月25日現在)

 

昔は1番から始まるものだった背番号も、80年代より各チームで「0」も採用されるようになった。

 

巨人では、89年から川相昌弘が「0」を付けたのが最初である。

 

川相 昌弘

(1989〜1999年)

通算犠打数533の世界記録保持者でギネス記録にも登録されており、現役時代は「バント職人」の異名を持っていた。

 

堅実かつ闘志溢れるプレーで、守備・打撃の両方で90年代のプロ野球を代表する選手の一人であり、巨人の顔となった。

 

全盛期には遊撃手であったが、選手生涯では三塁手、二塁手、一塁手、外野手もつとめたユーティリティープレイヤーである。

 

引退後は巨人のヘッドコーチや二軍監督などをつとめ、18年にはイースタンリーグ優勝に導いた。

 

川中 基嗣

(2001〜2006年)

内外野の全ポジションを守れる強肩・俊足のユーティリティープレイヤーとして活躍した。

 

守備だけでなく打撃でも活躍し、05年には代打で5割の打率を残した。

 

引退する07年には、俊足のイメージがある背番号「00」を付けている。

 

木村 拓也

(2007〜2009年)

捕手出身であるが、プロ入り後は投手以外のすべてのポジションを守り、球界屈指のユーティリティープレイヤーとして重宝された。

 

06年途中に交換トレードで広島から巨人に移籍し「58」を付けたが、翌07年から移籍前に付けていた背番号「0」を川中に変わって付けた。

引退後すぐ翌年から一軍内野守備走塁コーチに就任するが、試合前のノック中にクモ膜下出血で倒れ、37歳の若さで他界した。

 

工藤 隆人

(2010〜2011年)

俊足を生かした好守が持ち味の外野手として期待され、日本ハムより巨人に交換トレードで移籍してきた選手。

 

翌年、引退した木村から「0」を引き継いだが、松本、亀井、長野ら若手の台頭により出場機会があまり得られず2年でロッテに移籍した。

 

藤村 大介

(2012〜2016年)

「ピノ村(野球ゲームの超俊足キャラクター『ピノ』に由来)」の愛称を持ち、俊足を武器として11年には盗塁王に輝いた。

 

翌12年より背番号「0」を付けたが、レギュラーに定着できないどころか二軍落ちと一軍昇格を繰り返し、17年よりドラフト1位入団の吉川 尚輝に背番号「0」を渡すことになる。

 

すばやい動作が持ち味の守備であったが、送球が弱く安定性にも欠け、失点につながるプレーが多いと評価されることもあった。

 

吉川 尚輝

(2017年〜)

抜群の守備範囲と身体能力の高さを買われ、16年ドラフトで1位(外れ外れ1位)指名され、17年に背番号「0」で入団。

 

広島の菊池涼介と同じ大学出身であり、守備について比較されることも多い。

 

1年目は二軍と一軍を行き来するもシーズン最終戦でスタメン出場し、2年目の18年には開幕一軍スタメンを果たした。

 

守備だけでなく、パンチ力のある打撃も評価が高く、価値ある一打を放つスター性も期待されている。

背番号0のイメージ

ゼロからのスタートという意味からベテランが付けるイメージもある。

 

しかし巨人では「1」「3」「4」番は永久欠番であり、使用できる1ケタの背番号が少ないため、1ケタに準ずる番号という位置付けもあると思う。

 

ただ、主役が付ける番号ではなく、最初に付けた川相もレギュラー定着後ピークを過ぎると、空いた「6」番に変更している。

 

背番号「0」は、ユーティリティープレイヤーとして活躍しているが、レギュラー(主役)まではいかない、いわゆるバイプレイヤー(名脇役)の番号と考えてよいだろう。

 

吉川尚輝が入団時から付けたため、ドラ1が脇役扱いかと揶揄されることもあったようだ。

 

若手の俊足選手が付けるようになり、だんだん「00」と似たイメージになってきているようにも感じる。

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